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20200109:そう言えば ”盆栽” が無かった(例の ”格付けチェック”@元旦TV特番) [ただの私見]

 今ではお馴染みになってしまった正月元旦特番。
 今年も視聴率では一人勝ちだったらしい。
 ワインとか牛肉、いろんな料理等の “食べ分け” と違って ”聴き分け”(楽器/合唱・・・)と “観分け” はこちらも参加出来るので楽しみなんだが、正直 “解らない” 時もそれなりにあります。
 こんな時は “当てずっぽう” になっちゃうが、成績は五分五分辺りか。

 連勝を続けている “GACKT” さんは “凄い” としか言い様が無い(自分は “やらせ” とは想っていないのです)。
 その彼の一番の “苦手” は “盆栽” らしいが、今年は無かった。

 “盆栽” の見分けは、一億円とかの値が付く “本物” と “菓子工芸モノ” を比べるのだが、TV画面で観る限り区別は難しい。
 本物に対しては “大仰な” 解説がつくが、自分はちっともそんな印象を受けない。
 “木が可哀想だ” ・・・ としか感じないし、作者は “木の精” を感じないのだろう。
 小さな空間に無理矢理に樹木の生長を押さえつけて形を整える盆栽を自分は好まない。
 同じ樹木加工であっても動物の形に刈り込む “トピアリー” とは樹木に接する心が大部違う。

 盆栽作家は “そこに自己が想う世界を表現” している・・・と言うのだろうが、今は昔、昭和天皇はご自身が散歩される皇居内では
   “草花木の剪定等々の手入れを一切禁じられた”

との記事を読んだ記憶がある。
 まさに
   自然のまま ・・・ “あるがままに”( Let It Be!) が良い

と仰ったとの事だ。

 同じ考え方は、米国の国立森林公園の火事を含む自然災害への取り組みの中で、一切人為的な消火等の活動は起こさない例でも観る事が出来る・・・と想うのです。
 “自然のままに”、”あるがままに” ・・・ の考え方だ(批判がある事は知っている)。

 盆栽はこれとは究極的な対位置にある・・・と想う。

ところで、年寄りの “得意技” で話は飛ぶのですが・・・:
 特に北欧&北米で “動物虐待” が声高に叫ばれるのだが、”植物虐待” とは一向に見聞きしない。
 だが、 “生物多様性” とは、命ある有機生命体の有り様を “そのままに平等にとらえる” と言う考え方が基本にあり、本来は植物が含まれても何ら問題無い筈だ。

 この主旨からすれば、森林機能を維持する為の “間伐材” を有効に利用するとか、”森林保証木材” とか、出雲大社や伊勢神宮の様な “社殿建て替え材” として育てた合目的樹木ならともかく、由来/出自を問わずに木材製ならなら何でも優しい・・・とは短絡し過ぎだ。

更に飛躍して・・・:
 この12月に完成したあの新・国立競技場は外装に木材をふんだんに使い切ったデザインだ。
 ご批判を承知で申し上げれば、これでもか、これでもか・・・って具合に加工した木・木・木・・・を押しつけていて、自分は些か “僻々感” で一杯だ。

その上:
 ひとたび中に入ればトラック/フィールドを舞台とする選手等の立場を十二分に配慮した競技場とは自分にはどうしても “想えない”。
 と言うのも、高層観客席の仕様が設計者側の一方的な思い込み満載の感じで、上の方はそれこそ半端ない急傾斜で、サッカーとかラグビーの様な集団競技なら全体が俯瞰出来るので一見良いようだが、選手同士の “鍔迫り合い” とか “ぶつかり合い” の “音” とか ”息づかい” 等はトラックに遮られて聴くどころでは無い。
 加えて、個人で格闘する競技者には “異常な” 圧迫感を与えやしないか。

 それに、あんな狭い通路で万が一の時、満員観衆が無事に競技場から退避出来るか・・・とさえ想えてくる。
 まぁ、何が起こっても “そこでじっと” していなさい・・・って方針かも?

 そんな懸念が僅かながら抱いたので、“不向き” な印象を受けました。
 些か支離滅裂気味でしたが、五輪で評判が良ければ良いんだが・・・

因みに:
 自分は金がかかりすぎるって事でボツになったデザインの方が、今現在超急速に進んでいる東京都のインフラ&建築ラッシュとの整合性が高いとさえ想うのです。

ついでに:
 某TV局で、"新・国" 設計者の木造建築物が多数紹介されていたが、何でああも木材を前面に押し出して “これ見よがし” のデザインにするのか、自分の感性の “枠” を越えている。
 木の優しさ/ぬくもりは、さりげない設計でも十二分に表現出来る筈・・・とは門外漢の独り言であります・・・ゴメンナサイ。


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